日本文学を代表する作家、夏目漱石のそのまた代表作といってもよいでしょう。
長年の高校教科書掲載作品としても有名で、書籍を手に取って読んでみたことがないという人でも教科書掲載部分の内容くらいはなんとなく覚えているのではないでしょうか。
また、累計発行部数は700万部を超えており、日本で最も売れている小説であることから、書籍として手に取り通読したことがあるという人もそれなりにいるのだと思います。
そんな本書は恋愛の三角関係が物語後半の枢要を占めることもあり、殊更に恋愛小説面を強調したプロモーションがかけられることも多いように感じられます。
しかし、本書の主題は「時代の趨勢と人々の『こころ』」であり、漱石自身もそれを意識して書いたという解釈が通説となっております。
派手なアクションシーンや意外などんでん返しなどがあるわけではなく、ぐいぐい感情を揺さぶられるというわけではありませんが、手堅い面白さのある作品です。
あらすじ
東京帝国大学の学生である「私」は夏休みに訪れていた鎌倉の海岸で「先生」と出会う。
ひょんなことから「先生」との交流を始めた「私」だったが、「先生」にはどこか謎めいたところがあり「私」には「先生」の奥底が理解できないように感じられていた。
「先生」とその妻との関係、そして「先生」が毎月行う墓参にヒントがありそうだが、「私」にはそれが掴めない。
そんなある日、「私」は重い腎臓病を患う父のいる実家へと帰省することになった。
当初は父も元気な様子だったが、明治天皇が崩御し、乃木大将が割腹自殺で殉死した頃から元気を失くすようになってきた。
事態の悪化を受け、「私」は東京へ帰る日取りを延期していたが、いよいよ父の容体が危なくなったその日、「先生」から手紙が届く。
手紙の末尾に記されている結末を先に見てしまった「私」はいてもたってもいられず実家を飛び出し、東京行きの汽車へと乗るのだった。
そして、汽車の中で「私」は「先生」の手紙を読み進めていく。
明治の人間として「先生」が自身の犯した罪にどう決着をつけるかを示した手紙。
そこに綴られた若き日の恋物語とは......。
感想
「先生」は下宿させてもらっている家の娘(お嬢さん)が好きになる。
しかし、精神衰弱気味の友人Kをこの下宿に連れてくるとKまでお嬢さんのことが好きになってしまう。
「先生」はKの恋心を知りながらお嬢さんの母親に「お嬢さんを私にください」と結婚を申し込む(親に「告白」するのは当時は普通のことだった)。
Kは煩悶と苦悩の中で自殺し、「先生」もまた友人を裏切ったという記憶を抱えたままその後を過ごす。
これが恋愛三角関係を軸にした本書の解説となるでしょう。
友人が好きな人を好き。
自分が先に告白して友人からチャンスを奪い去る。
そんな自分に対する嫌悪にずっと苛まれる。
恋愛は罪深い。
しかし、本書のテーマは上述の通り、「時代の趨勢と人々の『こころ』」 。
恋愛パートだけをそれっぽく切り取った解釈だけでは本書を楽しみきれたとは言えないでしょう。
三角関係という盛り上がりパートをしっかり後半(「下 先生と遺書」)に据えてくるのは大衆小説家としての実力も兼ね備える漱石の腕前が表れているといえますが、本書を十全に味わうためにはまず前半部分、「上 先生と私」「中 両親と私」にまずは注目しなければなりません。
最終的に、「先生」はKとのあいだで犯した罪にたいして自決という選択をするわけですが、主人公である「私」に対してその罪を明かすのは既に死を決意した後、もう「私」が「先生」の自殺を止められないくらい物理的に遠くに行ってしまったところで、「私」に対して手紙という形で罪を告白するわけです。
なぜ、「先生」は私と出会って交流を深めた時点、つまり「上 先生と私」の時点で「私」に対してこの罪を告白しなかったのでしょうか。
それは、「先生」も作中で述べている通り、「私」にはそれが深い罪だということも、そういった罪を犯したから死んだように生きているのだという自身の心境が究極には理解されないと考えていたからです。
理解されないのを分かっていてまるで同情を引くがために語るようなことはするべきではないというのが「先生」の考えになっております。
そんな「先生」は「私」を見くびっていたのでしょうか。
いいえ、「先生」の眼力は確かなもので、「私」が本質的には「先生」の抱える懊悩の深さや罪に対する悩みの深刻さを理解することができない人物なのだということが作中で示されます。
その場面とは「中 両親と私」において、乃木大将の殉死に対して何も感じない「私」と急に気落ちして元気を失くす父との対比に表れます。
明治維新以来の忠臣であり日露戦争の英雄でもある乃木大将の殉死、というのは本書執筆時最大の時事ネタといってもよい事件で、明治天皇崩御後、大喪の礼終了後に腹を十字に割いて自刃したという衝撃的な自殺方法とともに大ニュースになったのです。
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